久保田城

歴史

久保田城は、1602年(慶長7年)に秋田藩主・佐竹義宣が築いた平山城です。佐竹氏は関ヶ原の戦い後に常陸国から出羽国へ転封され、湊城を破却して新たに久保田城を建設しました。築城は1603年に始まり、1631年頃に完成したとされています。久保田城は藩庁として機能し、江戸時代を通じて秋田藩の中心地となりました。
戊辰戦争後の廃城令でほとんどの建物が失われましたが、現在は千秋公園として整備されており、「日本百名城」に選定されています。復元された御隅櫓や御物頭御番所が見どころとなっています。
 

構造

久保田城は石垣をほとんど使用せず、土塁と堀を主体とした防御構造を持つ平山城です。

  • 土塁と堀: 石垣を使わず、高い土塁(鉢巻土塁)と深い水堀で防御を固めています。鉢巻土塁は基礎に石垣を数段積み、その上に巨大な土壁を築いた独特な技法です。

  • 天守非設置: 天守閣は造られず、本丸南西隅には書院風二階建ての「御出書院」を設置して代用しました。

  • 三重構造: 本丸、二の丸、三の丸・北の丸が配置されており、防御力と行政機能を両立しています。

  • 枡形虎口: 城門周辺には枡形構造が採用され、防御力を強化しています。

  • 御隅櫓: 武器庫兼見張り場として機能した櫓で、現在復元されています。

他のお城にはない特徴

  1. ①石垣を使わない「土造りの城」
    久保田城は石垣ではなく土塁を主体とした防御構造であり、「土造りの名城」と称されます。この設計は佐竹氏が得意とした技術であり、関東・東北地方でも珍しい例です。

  2. ②天守非設置の合理性
    天守閣を造らなかった理由には、財政事情や幕府への配慮が挙げられます。代わりに「御出書院」が設けられた点が他城との大きな違いです。

  3. ③鉢巻土塁の迷路状構造
    鉢巻土塁による迷路状の構造は、防御力だけでなく敵軍を混乱させる効果もあり、独特な防衛技術として注目されています。

  4. ④質素ながら機能的な設計
    久保田城は質素ながらも防御性や行政機能を重視した実用的な設計であり、佐竹氏の築城哲学が反映されています。

  5. ⑤千秋公園として親しまれる遺構
    現在の久保田城跡は千秋公園として整備され、市民の憩いの場や桜の名所となっています。このように歴史遺産が公園化された例は珍しいです。

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