築城の名手とされる3武将

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築城の名手とされる三人は、加藤清正藤堂高虎黒田官兵衛(黒田孝高)です。それぞれが手掛けた代表的な城と、その特徴について説明します。
 

①加藤清正

代表的な城:熊本城
加藤清正が築いた熊本城は、堅牢さと実戦的工夫で名高い名城です。
最大の特徴は「武者返し」と呼ばれる反りの強い高石垣で、敵が登ろうとすると上部で急角度になり、侵入を困難にします。城内には50以上の櫓や120以上の井戸があり、長期籠城にも耐えられる設計です。登城路は複雑に折れ曲がり、敵の進軍を妨げる構造となっています。
さらに、床下の石落としや忍び返しなど多彩な防御設備が随所に施されています。
清正は豊臣秀吉の家臣として朝鮮出兵を経験し、その実戦経験を活かして熊本城に反映しました。
 

②藤堂高虎

代表的な城:今治城伊賀上野城
藤堂高虎は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した築城の名手として知られています。彼は主君を6度も替えながらも、その都度信頼を得て重用され、多くの城の築城や改修を手がけました。また藤堂高虎は、築城技術の革新者として知られます。
今治城は海水を堀に引き入れた「海城」で、海運を活かした防御と交通の利便性が特徴です。天守はそれまで主流だった望楼型ではなく、最新鋭の層塔型を採用し、構造的な安定性と工期短縮を実現しました。これは後の城郭建築の主流となります。
伊賀上野城は、大坂城包囲網の一角として築かれ、本丸を西に拡張し、長さ約368m、高さ約30m超の高石垣がめぐらされました。この高石垣は日本有数の規模で、外郭には多数の櫓や巨大な渡櫓も設けられました。高虎の築城は、地形や時代背景に応じた独自の工夫が随所に見られます。
 

③黒田官兵衛(黒田孝高)

代表的な城:福岡城中津城
黒田官兵衛(孝高)は、知略に優れた築城家です。福岡城は天守を設けず、曲輪や石垣、堀を巧みに配置して防御力を高めています。中津城は「水城」として知られ、堀や川を最大限に活用した防御構造が特徴です。いずれも実戦を想定した堅実な設計で、官兵衛の戦略的思考が反映されています。

*藤堂高虎について

藤堂高虎が仕えた主君は、戦国から江戸初期にかけて実に多く、主君を何度も変えたことで有名です。ただしそれは裏切りではなく、「実力で上に登っていった結果」であり、「忠誠心より能力が重視された時代背景」も大きな要因です。
 

藤堂高虎が仕えた主君一覧(時系列)

以下、時系列順に藤堂高虎が仕えた主君をまとめます。
1.浅井長政(あざい ながまさ):浅井家の家臣として初陣を飾る
2.阿閉貞征(あつじ さだゆき):浅井家滅亡後に仕えるが、短期間で離反
3.磯野員昌(いその かずまさ):北近江の武将。これも短期間で離反
4.豊臣秀長(とよとみ ひでなが):秀吉の弟。ここで大きく出世し、築城・行政・軍事で活躍。
5.豊臣秀吉(とよとみ ひでよし):秀長死後、直接豊臣秀吉に仕える
6.徳川家康(とくがわ いえやす):関ヶ原後にその実力を見出され徳川方へ。伊賀・伊勢22万石を得て大名に。
 

ポイント

  • 仕えた主君の数:6人(記録に残る範囲)

  • 秀長に仕えた時期が最も重要:行政官僚・築城術において才能を発揮

  • 裏切り者ではない:むしろ「戦国を生き抜いたプロフェッショナル」

  • 徳川家康に仕えた後は徳川政権の重鎮となり、江戸幕府にも大きく貢献

 

現代の評価

藤堂高虎は「主君を七たび変えた」とも言われますが、裏切りではなく、「時代の流れと共に自らの能力を活かせる場所を選び抜いた武将」と言われている。

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