佐和山城

歴史

佐和山城は滋賀県彦根市に位置する山城で、鎌倉時代初期に近江源氏・佐々木定綱の六男、時綱が麓に館を構えたことが始まりとされています。
戦国時代には浅井氏や六角氏の争奪戦の舞台となり、織田信長豊臣秀吉の時代には要衝として重視されました。
石田三成が城主となった1590年代には五層の天守を備える近世城郭として完成しましたが、関ヶ原の戦い後に廃城となり、その資材は彦根城に転用されました。
 

構造

佐和山城は連郭式で、山頂の本丸を中心に二の丸、三の丸、西の丸、太鼓丸などが配置されていました。堀切や土塁など防御的な構造が特徴で、石垣は石田三成時代に築かれたものですが、彦根城建設時に多くが移されたため現在は一部しか残っていません。
 

他の城にはない特徴

  • 交通の要衝: 琵琶湖東岸に位置し、東山道に面する戦略的な立地。

  • 石田三成の居城: 三成が築いた五層の天守や整備された城下町は名城と称されました。

  • 資材転用: 廃城後、その構造材が彦根城建設に活用された点も特異です。

 

|佐和山城廃城後の流れ

佐和山城は関ヶ原の戦い(1600年)の後、石田三成が敗北したことで廃城となり、その後大きな変化を遂げました。以下に、廃城後の佐和山城とその周辺で起きた主な変化を解説します。

関ヶ原の戦いと廃城

関ヶ原の戦いで西軍の総大将であった石田三成は徳川家康率いる東軍に敗北し、捕らえられて処刑されました。三成の居城であった佐和山城も東軍によって攻撃を受け、落城しました。この際、城は焼き払われ廃城となります。
 

資材の転用

佐和山城が廃城となった後、その建材や石垣の多くは、徳川家康が命じて築かれた彦根城に転用されました。彦根城は井伊直政が初代藩主を務める彦根藩の拠点として建設され、佐和山城の資材がその基礎を支えています。特に石垣や瓦などが彦根城に再利用されたとされています。
 

地域への影響

  • 彦根藩の成立
    佐和山城が廃された後、井伊直政が近江国を治めることになり、新たに彦根藩が成立しました。これにより、地域の政治的・経済的な中心地は佐和山から彦根へと移行しました。

  • 佐和山周辺の変化
    佐和山自体はその後放置され、次第に荒廃していきました。ただし、山麓には石田三成を慕う人々によって彼を祀る寺院や記念碑が建てられるなど、歴史的な意味合いを持つ場所として残されました。

石田三成への評価と復権

江戸時代には石田三成は「逆賊」として扱われることが多かったものの、近代以降になると再評価が進みました。明治時代以降、三成を顕彰する動きが高まり、現在では佐和山周辺に石田三成を記念する碑や像が設置されています。また、観光地としても歴史ファンや登山客に親しまれる場所となっています。
 

現在の佐和山

現在の佐和山は遺構としてわずかな石垣や土塁跡が残るのみで、本丸跡なども自然に覆われています。ただし、山頂からは琵琶湖や彦根市街を一望できる景観が楽しめ、多くの歴史ファンや観光客が訪れるスポットとなっています。また、「石田三成ゆかりの地」として地域振興にも活用されています。

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