富山城
歴史
富山城は1543年(天文12年)頃、越中守護代・神保長職が築いたとされます。神通川を天然の堀として利用し、戦略的な要地に位置しました。戦国時代には上杉謙信や織田信長の家臣・佐々成政、一向一揆などによる争奪戦の舞台となりました。
1582年(天正10年)の本能寺の変後、佐々成政が羽柴秀吉に敗北し、城は破却されました。その後、加賀藩初代藩主・前田利長が隠居城として再建し、豊臣秀吉の聚楽第を参考に本丸や西の丸を整備しました。江戸時代には富山藩の藩庁として機能し、幕末まで続きました。
明治時代以降は廃城となり、本丸跡に県庁が建設されるなど、多くの建物が失われました。1954年(昭和29年)には模擬天守が建てられ、現在は富山市郷土博物館として利用されています。
構造
富山城は梯郭式平城で、以下の特徴があります:
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天然の要害: 神通川を北面の守りとし、水堀と河川で二重に囲まれた防御力の高い構造。
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縄張り: 方形の本丸を中心に南側に二の丸、東西に出丸を配置。本丸を三重の曲輪で囲む形状で、防御と反撃を考慮した設計。
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聚楽第型城郭: 豊臣秀吉の聚楽第を参考にしたとされ、本丸周囲には馬出(小曲輪)が設けられました。
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天守非設置: 天守台は築かれたものの、幕府への配慮から天守そのものは建設されませんでした。
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現存遺構: 千歳御門(移築後再建)や石垣、水堀が残り、一部は復元されています。
他のお城にはない特徴
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①「浮城」の別名
富山城は神通川の川面に浮かぶような姿から「浮城」と呼ばれました。このような水城特有の景観は他城には少ない特徴です。 -
②聚楽第型設計
豊臣秀吉が築いた聚楽第を手本とした設計であり、その影響が見られる点は特異です。 -
③模擬天守による復興
1954年に建てられた模擬天守は、日本における戦後復興天守建設ブームの先駆けとなりました。この模擬天守は富山市郷土博物館として利用され、地域文化発信の拠点となっています。 -
④鏡石と刻印石
本丸虎口には巨石「鏡石」が使われており、その存在感が権威を示しています。また、約90種類・250個以上の刻印石が確認されており、当時の職人技術を伝えています。 -
⑤「荒城の月」のモデル説
作曲家・滝廉太郎による「荒城の月」のモデル地とも言われています。この点で文学的な価値も付加されています。
現在、富山城跡は「富山城址公園」として整備され、市民や観光客に親しまれています。模擬天守や千歳御門など歴史的要素と現代的な施設が融合した魅力的なスポットです。
