海城とは

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「海城」とは

海城(うみじろ)は、湖や海に接して築かれた城で、水上交通が重要だった戦国時代から江戸時代にかけて発展しました。
物流や軍事活動において川や海を抑えることが戦略的に重要であり、これを背景に海城が築かれました。代表的な海城としては、高松城(香川県)、今治城(愛媛県)、宇和島城(愛媛県)が挙げられます。これらは「日本三大海城」と呼ばれています。
 

  • 高松城: 生駒親正が1588年に築城を開始し、1590年に完成。瀬戸内海の潮の干満を利用した防御設計が特徴。

  • 今治城: 藤堂高虎が1602年に築城を開始し、1608年に完成。広大な水堀と国内最大級の船入を備えた構造が特徴。

  • 宇和島城: 藤堂高虎が1596年から6年かけて築いた海城で、後に現存天守へ改修されました。

 

構造

海城の設計は、防御性と水運の利便性を両立させる工夫が施されています。

  • 堀と海水: 海水を堀に引き込み、防御と景観を兼ねる設計。潮の干満による水位変化も利用されました。

  • 船入: 城内に港や船溜りを設け、物資輸送や軍事活動を効率化。

  • 石垣: 高松城や今治城では高い石垣で敵の侵入を防ぎました。

  • 本丸と曲輪配置: 本丸を中心に二の丸や三の丸を配置し、堀や門で囲む連郭式構造。

 

海城の特徴

  1. ①潮の干満を活用した防御設計
    高松城では瀬戸内海の潮の干満による水位変化が防御機能として利用されました。

  2. ②日本最大級の船入
    今治城は国内最大級の船入を備え、水軍拠点としても機能しました。

  3. ③水上交通との融合
    海城は物流拠点としても活用され、地域経済や文化発展にも寄与しました。特に今治城は瀬戸内海航路の要衝として重要な役割を果たしました。

海城を築城した名手たち

海城を築城してきた名手として特に知られるのは以下の人物です。
 

藤堂高虎

  • 代表的な海城: 今治城(愛媛県)、宇和島城(愛媛県)、大洲城(愛媛県)

  • 特徴: 藤堂高虎は関ヶ原の戦い後、瀬戸内海沿岸の地形を活用して海水を堀に引き込む構造を持つ海城を築きました。今治城では堀に船が入れる設計を採用し、港と城郭が一体化した防御機構を構築しました。

 

明智光秀

  • 代表的な海城: 坂本城(滋賀県)、宮津城(京都府)

  • 特徴: 琵琶湖沿いの坂本城や日本海側の宮津城など、水軍運用を考慮した海城を築きました。光秀は信長政権下で戦略的拠点として水軍との連携を重視し、最先端の技術を駆使した設計を行いました。

 

小早川隆景

  • 代表的な海城: 三原城(広島県)、名島城(福岡県)

  • 特徴: 村上水軍を傘下に収めた隆景は、水軍拠点として三原城や名島城などの海城を築きました。これらの城は防御と水軍運用の利便性が融合しており、瀬戸内海や九州北部で重要な役割を果たしました。

 

細川忠興

  • 代表的な海城: 中津城(大分県)[注1]、宮津城(京都府)[*注2]、小倉城(福岡県)

  • 特徴: 細川忠興は中津城、宮津城、小倉城など複数の海城を居城としており、水運や防御性を重視した設計思想が見られます。彼は父・藤孝や師・明智光秀から築城技術を学び、それを活かして海城の完成度を高めることに成功しました。

    細川忠興はその戦略的視点から、海城を重要な拠点として活用し、日本の築城史において特異な存在となっています。

 
*注1:黒田官兵衛が築城を開始したものの、国人一揆などで工事が停滞していたため、忠興が完成させました。堀や貯水池を整備し、防御力と利便性を高めました。
*注2:細川忠興と父・細川藤孝(長岡藤孝)が築城し、明智光秀も関与。本丸が海に直接面した構造で、水軍拠点として機能。丹後地方の中心地として戦略的に重要な役割を果たしました。信長の指示で光秀と相談しながら設計され、対毛利氏戦略を見据えた海城として築かれました。近世水城の先駆けとも言われています。
 
これらの築城名手はそれぞれ異なる地域や目的に応じて海城を設計し、日本の戦国時代から近世にかけて独特な防御機構を発展させました。また、これらの築城名手たちは、地形や水運を最大限に活用し、日本の戦国時代から江戸時代にかけてその技術が発展していきました。

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