鶴ヶ城(会津若松城)

HOME | 日本全国のお城情報まとめ | 鶴ヶ城(会津若松城)

鶴ヶ城の歴史

鶴ヶ城(若松城)は、1384年に葦名直盛が東黒川館として築いたのが始まりです。その後、蒲生氏郷が七層の天守を建て、江戸時代には五層天守に改修されました。戊辰戦争では新政府軍の攻撃に耐えた難攻不落の城として知られていますが、明治7年に取り壊され、昭和40年に再建されました。現在の天守閣は国内唯一の赤瓦を使用しています。

 
鶴ヶ城の歴代藩主の家紋
鶴ヶ城の歴代城主の家紋

 

鶴ヶ城の構造

鶴ヶ城は梯郭式平山城で、堀や石垣による防御が特徴です。天守は五層構造で内部は博物館となっています。石垣は蒲生氏郷が築いた「野面積み」で、地震にも耐える設計です。縄張りは複雑で、防御力を高めるために出丸や高低差を利用した構造となっています。
 

見どころ

  • 赤瓦の天守閣: 国内唯一の赤瓦で、美しい外観が特徴。

  • 天守からの眺望: 会津盆地や磐梯山を一望できます。

  • 茶室「麟閣」: 千利休の子・少庵ゆかりの茶室。

  • 石垣と廊下橋: 高さ約20mの石垣や朱色が鮮やかな廊下橋。

  • 四季折々の景観: 桜、新緑、紅葉、雪景色などが楽しめます。

 
*また、鶴ヶ城(会津若松城)の天守を飾られた「しゃちほこ(鯱)」は、装飾の豪華さで知られています。特に注目されるのが、その「目」に2カラットのダイヤモンドが使われているという点です。季節や時間帯ごとに立ち位置を変えると、そのダイヤモンドのお陰で目が光って見えると言われています。
なお、鶴ヶ城のしゃちほこは銀箔で覆われ、「名古屋城の金のしゃちほこ」に対し、「鶴ヶ城の銀のしゃちほこ」と呼ぶ方もいます。

◎鶴ヶ城の瓦はなぜ赤い?

鶴ヶ城の赤瓦
 

鶴ヶ城(会津若松城)の瓦が赤い理由は、会津地方が日本有数の豪雪地帯で冬の寒さや凍結が非常に厳しいため、寒さや凍結に強い瓦が必要だったためと言われています。
赤瓦は表面に鉄分を多く含んだ釉薬を施して焼かれており、この釉薬が水分の浸透を防ぎ、凍結による割れを防ぐ効果があります。そのため、従来の黒瓦から江戸時代初期(1648年ごろ)に赤瓦へと葺き替えられました。
また、2011年の修繕工事で、幕末当時の赤瓦の色合いを再現するため、黒瓦から再び赤瓦に葺き替えられています。地元の方の中には、NHK大河ドラマ『八重の桜』(綾瀬はるか主演)の放送に合わせて元の赤い瓦に葺き替えられたという方もいます。 

戊辰戦争と鶴ヶ城

慶応4年(1868年)の戊辰戦争において、鶴ヶ城は旧幕府側の会津藩が籠城した舞台となりました。新政府軍の猛攻に耐え1ヶ月間の籠城戦を続けましたが、援軍が得られず食料や弾薬も枯渇したため、最終的に降伏しました。
 

降伏とその後

9月22日に藩主・松平容保が降伏を決断。城は新政府軍の砲撃で大きく破壊されましたが、その耐久力は「難攻不落」と称されました。敗戦後、会津藩士たちは青森県斗南藩へ移住しました。

会津若松市の鶴ヶ城

戊辰戦争と白虎隊

白虎隊とは

白虎隊は、戊辰戦争(1868年)において会津藩が組織した、主に16~17歳の武家の少年たちによる部隊です。会津藩は年齢別に玄武隊(50歳以上)、青龍隊(36~49歳)、朱雀隊(18~35歳)、白虎隊(16~17歳)と分けて防衛体制を整えていましたが、白虎隊は本来予備兵力として城下の警護を担っていました。

飯盛山での悲劇

戊辰戦争の会津戦争で新政府軍の圧倒的な軍勢に押され、白虎隊士中二番隊の少年たちは前線から退却し、飯盛山にたどり着きます。そこで彼らは、遠くに見える鶴ヶ城(会津若松城)周辺の城下町が炎に包まれているのを目撃し、「城が落ちた」と誤認しました。
このとき、隊士の一人が「城に入って戦うべきだ」と提案しましたが、「捕虜となれば主君や先祖に申し訳ない。ここで自刃し、武士の本分を明らかにしよう」との意見が採用され、全員が自決を選びました。実際には城はまだ落ちておらず、燃えていたのは城下町でした。

戊辰戦争における白虎隊
*鶴ヶ城会館に展示されている白虎隊の模型

 

唯一の生存者

この集団自決で唯一生き残ったのが飯沼貞吉(のちの貞雄)です。彼は喉を突いて自刃を図りましたが死にきれず、地元の女性に助けられました。その後、長岡藩の軍医や新政府軍の長州藩士に保護され、明治以降も生き延びて白虎隊の逸話を後世に伝えました。

白虎隊の象徴性と逸話

  • 白虎隊の悲劇は、会津藩の忠義と武士道精神の象徴として語り継がれています。

  • 飯盛山には白虎隊十九士の墓があり、今も多くの人が慰霊に訪れます。

  • 白虎隊の逸話は、会津の教育や「什の掟(ならぬことはならぬものです)」といった精神文化とも深く結びついています。

戊辰戦争とは

戊辰戦争は、幕末の混乱と開国による社会変動の中で旧幕府と新政府の対立から発生した日本最大規模の内戦です。新政府軍の勝利によって明治新政府が確立し、日本は近代化への大きな一歩を踏み出しました。
 

1868年1月:鳥羽・伏見の戦い。京都で新政府軍と旧幕府軍が衝突。
1868年4月:江戸城無血開城。西郷隆盛と勝海舟の交渉で江戸が戦火を免れる。
1868年5月:奥羽越列藩同盟の結成。東北諸藩が新政府に対抗。
1868年9月:戊辰戦争(会津戦争)で会津藩が降伏、白虎隊の自決。
1869年5月:五稜郭の戦い(箱館戦争)で旧幕府軍が降伏し、戦争終結。

 

歴史的背景
1.幕末の動乱と開国

1853年、ペリー来航により日本は開国を迫られ、幕府は不利な条約を締結しました。これにより、欧米列強の影響が強まり、国内の不安が増大しました。

2.幕府の衰退と新勢力の台頭

長年続いた徳川幕府は、第二次長州征討の失敗や将軍の相次ぐ死去などで権威が低下し、薩摩藩・長州藩など倒幕派が力をつけていきました。

3.大政奉還と王政復古

1867年、徳川慶喜は政権を朝廷に返上(大政奉還)しましたが、薩摩・長州藩と一部の公家は「王政復古の大号令」を発し、天皇中心の新政府樹立を宣言しました。

4.新政府と旧幕府の対立

新政府軍(薩摩・長州・土佐藩など)と旧幕府軍(徳川幕府側)の対立が激化し、1868年1月の「鳥羽・伏見の戦い」を皮切りに全国規模の内戦へと発展しました。

結末と影響
1.新政府軍の勝利

約1年半にわたる戦いの末、1869年5月の五稜郭の戦いで旧幕府軍が降伏し、戊辰戦争は新政府軍の勝利で終結しました。

2.徳川家の存続と武士階級の終焉

江戸城は無血開城され徳川家は存続を許されましたが、武士階級の特権は失われていきました。

3.明治新政府の確立と国際的承認

国内の他の交戦団体が消滅したことで、明治新政府が日本の合法政府として国際的に認められるようになりました。

4.近代国家への転換

戊辰戦争の勝利により、天皇を中心とした中央集権体制が確立し、日本は近代国家への道を歩み始めました。

ピークアンドバレー合同会社(ロゴ)