49.結城秀康の家紋
左三つ巴(結城巴)

巴紋の一つ。巴とは弓を射るときに腕を保護する革製の武具(=鞆という)を図案化したものである。
*21.小早川家の家紋も左三つ巴だが、両者の家紋のデザインは微妙に異なる。結城巴では巴の●が小さく、左への流れが小早川のものより長い。
結城秀康という戦国武将について
- 結城秀康は徳川家康の次男。一度秀吉の養子となった後に結城家に養子として入り家督を継ぐ。そのため名字が結城姓になっている。
- 関ヶ原の戦い後、越前に移封され名を松平に改める。越前松平家の宗家初代である。
- 結城秀康は生涯に何度も家を移動しているためもあってか、どの家紋を使ったのか参考文献によって説明がかなり異なる。おそらく置かれた立場によって家紋がコロコロと変遷したものと思われる、このサイトでは一般に「結城巴」と呼ばれている家紋を採用して説明していいる(中には秀康は右巴とする参考文献もある)。
|越前松平家とは
越前松平家は、江戸時代に越前国(現在の福井県)を治めた大名家で、徳川家康の次男である結城秀康を祖とする家系です。徳川家康の直系にあたるため、特に格式が高い「御三家」に次ぐ「親藩大名」として扱われました。福井藩主として約270年間にわたり越前国を統治し、地域の発展に大きく寄与しました。
越前松平家の始まり
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結城秀康
越前松平家の初代は、徳川家康の次男・結城秀康です。秀康は幼少期に豊臣秀吉の養子となり、その後、結城氏を継ぎましたが、関ヶ原の戦い後に越前68万石を与えられました。これが越前松平家の始まりです。 -
福井藩の成立
秀康は北ノ庄城(現在の福井城)を再建し、藩政を開始しました。その後、福井藩は幕末まで存続し、越前松平家が代々藩主を務めました。
越前松平家の特徴
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親藩大名
越前松平家は徳川将軍家の血筋であるため、幕府内で重要な役割を担いました。特に幕末期には政治的な影響力を発揮しています。 -
格式の高さ
御三家(尾張・紀伊・水戸)には及ばないものの、親藩として非常に高い格式を持ち、大名として尊重されました。 -
広大な領地
福井藩は最大で68万石という広大な領地を持ち、北陸地方では最大級の藩でした。その領地には越前国全域や若狭国などが含まれていました。
主な人物
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結城秀康(初代藩主)
徳川家康の次男であり、福井藩主として越前松平家を創始しました。武勇に優れた人物として知られています。 -
松平春嶽(14代藩主)
幕末期に活躍した越前松平家の重要人物です。春嶽は開明的な思想を持ち、幕府改革や明治維新に貢献しました。また、西郷隆盛や坂本龍馬とも交流がありました。
幕末期と明治維新
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幕末期には14代藩主・松平春嶽が政治改革に積極的に関与しました。春嶽は幕府内で要職を務める一方で、公武合体や開国政策などにも尽力し、日本の近代化に貢献しました。
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明治維新後、福井藩は廃藩置県によって消滅しましたが、越前松平家は華族として存続し、その後も地域社会や文化活動に関わりました。
越前松平家と福井
越前松平家は福井城を拠点とし、地域経済や文化を支えました。特に養浩館庭園(旧御泉水屋敷)は彼らが築いた美しい庭園であり、現在も福井市民や観光客に親しまれています。また、「福井」の地名も彼らが定着させたものとされています。