鹿児島城(鶴丸城)
歴史
鹿児島城(鶴丸城)は、1601年(慶長6年)に島津忠恒(家久)によって築かれた平山城で、薩摩藩の藩庁として機能しました。関ヶ原の戦い後、島津氏は外様大名として存続を許されましたが、徳川家康の脅威に備えるため、新たな居城として築かれました。背後に「城山」、東に棈木川、西に出水筋、南に錦江湾という「四神相応」の地形を選定しました。
忠恒の父・島津義弘は海岸近くの立地を防御上不適とし築城に反対しましたが、その懸念は幕末の薩英戦争で現実化し、イギリス軍艦から砲撃を受けることになります。江戸時代後半には藩政機能が麓の屋形造りの居館に移行し、山上部分は廃されました。明治6年(1873年)の廃城令で本丸が焼失し、西南戦争(1877年)では二之丸も焼失しました。
現在は「鹿児島県歴史資料センター黎明館」や「鹿児島県立図書館」が城跡に建てられ、御楼門や石垣などが復元されています。城跡は国指定史跡となり、日本100名城にも選定されています。
構造
鹿児島城は背後の山城部分と麓の居館部分からなる平山城で、防御よりも行政機能を重視した設計が特徴です。
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本丸・二之丸:
初期は本丸と二之丸が城山上に配置されましたが、江戸時代後半には麓部分に移行しました。本丸御殿には庭園や優雅な空間が設けられていました。 -
天守非設置:
鹿児島城には天守が建てられず、屋形造りの居館が中心となりました。この設計は薩摩藩独自の「実用性重視」の方針を反映しています。 -
石垣と堀:
城跡には石垣や堀が残り、一部には西南戦争時の弾痕も見られます。石垣は錦江湾側からの防御を意識した設計です。 -
御楼門:
大手門である御楼門は令和2年(2020年)に復元されました。この門は格式を象徴する重要な構造物です。 -
外城制度:
防御力を補完するため、周囲には100以上の「外城」と呼ばれる武士団居住地が配置されました。これにより広域的な防衛体制を構築しています。
他のお城にはない特徴
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①天守非設置による屋形造り
鹿児島城は天守を持たず屋形造りの居館を中心とした設計であり、防御よりも政治・行政機能を重視した構造です。この形式は薩摩藩独自のものです。 -
②四神相応の地形選定
東西南北を川、海、山で囲まれた「四神相応」の地形を選定した点が特徴的です。この思想は風水的観点からも特異です。 -
③薩英戦争で砲撃された歴史
幕末の薩英戦争ではイギリス軍艦から砲撃を受け、本丸御殿などが被害を受けました。このような近代戦争と関わった歴史を持つ城は少ないです。 -
④外城制度による広域防衛
城周辺に100以上の外城を設置し、防衛力を補完しました。この制度は薩摩藩特有であり、他藩には類例がありません。 -
⑤西南戦争の痕跡
城跡の石垣には西南戦争時についた弾痕が残されており、日本近代史との関わりも深い遺構となっています。 -
⑥鶴丸城という別名
背後の「城山」が鶴が舞う姿に似ていることから「鶴丸城」と呼ばれる点もユニークです。
