小田原城
歴史
-
戦国時代: 北条氏の本拠地として築城され、5代100年にわたり関東支配の拠点となった。北条氏康の時代には上杉謙信や武田信玄の攻撃に耐えた難攻不落の城として知られる。
-
1590年: 豊臣秀吉による小田原攻めで陥落。その後、徳川家康により再整備され、江戸時代には東海道を守る重要拠点となる。
-
江戸時代以降: 大地震による天守倒壊を経て再建が繰り返され、現在の天守は1960年に復元されたもの。
構造
-
総構(そうがまえ): 城下町全体を囲む外郭で、総延長約9kmに及ぶ土塁と空堀を持つ。堀幅16m、深さ10m以上という規模は全国最大級。
-
天守: 高さ27.2mで全国7位。石垣から突き出た「石落とし」など防御的機能を備えつつ、優美な三角形装飾が特徴。
-
曲輪構造: 三の丸と二の丸をつなぐ馬出曲輪や隠し曲輪(御茶壺曲輪)がある合理的な設計。
他のお城にはない特徴
-
総構の規模: 城下町全体を囲む外郭は、日本最大級で後の豊臣大坂城を凌ぐ規模。
-
中世と近世城郭の並存: 北条氏時代の中世城郭と江戸期の近世城郭が共存し、それぞれの遺構が現存する珍しい城。
-
三度復元された天守: 江戸時代に二度も復興された天守は小田原城のみであり、現在もその歴史的価値が評価されている。
小田原城の総構えについて
小田原城の「総構え」は、戦国時代に北条氏が行った日本最大級の城郭防御構造です。
歴史
-
築造の目的:
-
総構えは、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原攻勢に備えて、北条氏がうまくいった防御施設です。
-
北条氏康の時代から郭城約拡張が進められましたが、秀吉大軍(22万)に対抗するため、城下町全体を含む広大な防御線が完成しました。
-
-
その後の運命:
-
豊臣軍の包囲により北条氏は降伏し、小田原城は豊臣政権下で改修されました。
-
江戸時代には徳川家康によって総構えの一部が削除されましたが、現在も遺構が残っています。
構造
-
規模:
-
総構えは小田原城とその城下町全体を囲む防御線で、堀や土塁の総延長は約9kmにも及びます。
-
郭内には本丸・二の丸・三の丸が配置され、その外側に広大な外郭を形成していました。
-
-
防御設計:
-
北西および南西部は丘陵地を利用し、北東部は渋取川周辺の湿地帯、南東部は相模湾を天然要害として活用しました。
-
空堀や土塁など幾重にも巡らされており、中でも「小峯御鐘ノ台大堀切」は幅約20mの巨大な空堀で必見です 。
-
-
障子堀:
-
総構えには畝状に開始された「障子堀」が採用されており、防御性を高める工夫が実施されています。
特徴
-
日本最大級の規模:
-
総構えは戦国時代最大級の城郭構造であり、後の豊臣大坂城の惣構を凌ぐ規模でした。
-
-
自然地形を活用した防御:
-
丘陵地や湿地帯、相模湾など自然地形を巧みに利用し、防御力を向上させました。
-
-
中世と近世遺構の併存:
-
戦国期に築かれた総構えと江戸期に改修された近世城郭が併存している点は全国的にも珍しい特徴です。
現在のハイライト
-
総構えの遺構として、「小峯御鐘ノ台大堀切」や「早川口遺構」などが現存し、その限りあると感じることができます。
-
小田原城天守閣から眺める総立ち跡や周辺地域も観光客に人気です。
小田原城の総構えは、防御性と規模で戦国時代を見据えた城郭として知られ、その歴史的価値と遺構は現在も多くの人々を魅了しています。
