大坂城(大阪城)
|大坂城とは
大阪城の歴史
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大阪城は1583年、豊臣秀吉が築城した城で、輪郭式平城の構造を持ちます。
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豊臣時代には本丸を中心に内堀・外堀を配置し、天守は5重6階地下2階の望楼型でした。
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1615年の大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡後、徳川幕府が再建しましたが、1868年に廃城となりました。
構造
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豊臣時代:同心円状に郭を連ねた設計で、石垣には巨大な石材が使用されました。
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現在の天守閣:1931年に鉄骨鉄筋コンクリートで復興され、高さ54.8m。耐火性・耐震性を重視した近代的建築です。
他の城にはない特徴
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豊臣時代の石垣:一部が現存し、ドーンセンター敷地などで復元されています。自由に見学できる貴重なスポットです。
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近代的復興天守:鉄骨鉄筋コンクリート製で、桃山時代の様式を忠実に再現した設計が評価されています。
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市民による復興:昭和初期、大阪市民の寄付によって再建された点が特異です。
大阪城は歴史的遺構と近代建築が融合する独特な城として知られています。
|大坂城の石垣
大坂城といえば、やはり見どころは石垣ではないでしょうか。
大阪城の石垣は、豊臣秀吉時代と徳川幕府時代で築かれた方法や背景が異なります。それぞれの時代の築造方法について解説します。
豊臣秀吉時代の石垣(初代大阪城)
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築造時期: 1583年から築城が始まりました。
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技法: 「野面積み」という、石をほとんど加工せずに積み上げる技法が用いられました。自然石をそのまま活用し、荒々しい力強さが特徴です。
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石材の調達: 周辺地域から石材を集め、近隣の山から切り出したものを使用しました。
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運搬方法: 石材は人力や牛車、船を使って運搬されました。特に大阪城は淀川や大和川などの水運を活用できる立地にあり、大量の石材を効率的に運ぶことが可能でした。
徳川幕府時代の石垣(再建された大阪城)
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築造時期: 豊臣氏滅亡後、1615年の「大坂夏の陣」以降、徳川幕府が再建を開始しました。
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技法: 「打込接ぎ(うちこみはぎ)」という技法が採用されました。この技術では、石材を加工して隙間なく積み上げるため、より堅牢で美しい仕上がりとなります。
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天下普請: 徳川家康は全国の大名に命じて築城工事を行わせました。これを「天下普請」と呼びます。各大名は自領から石材を調達し、それぞれ担当する区画で作業を行いました。
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石材の調達と運搬:
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瀬戸内海沿岸や近畿地方から大量の石材が集められました。
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特に有名なのが「小豆島」や「犬島」など瀬戸内海諸島から切り出された花崗岩です。
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石材には「刻印」が彫られており、どの大名が提供したか分かるようになっています。この刻印は現在も見ることができます。
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石材は船で大阪まで運ばれ、その後陸路で現場へ移送されました。
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築造における工夫
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堅牢性と防御性:
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石垣は堀に向かって傾斜する「勾配」をつけることで安定性を高めました。
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また、高さや厚みを増すことで敵の侵入を防ぐ役割も果たしました。
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巨大な石材の使用:
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徳川時代には特に巨大な石材が使用され、「蛸石(たこいし)」や「肥後石」など、大きなものでは20トン以上にもなる巨石があります。これらは象徴的な存在として威圧感を与える目的もありました。
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水運と人力の融合:
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大阪城周辺は川や海に囲まれており、水運による効率的な輸送が可能でした。また、現場では多くの人力労働者が動員され、大規模な工事が行われました。
他にはない特徴的な点
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石垣には各大名が彫った「刻印」が多数残されており、当時の天下普請体制を物語る貴重な遺構となっています。
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徳川時代に築かれた大阪城の石垣は、日本最大級の規模を誇り、特に本丸東側(青屋口付近)の高さ約33mの高石垣は圧巻です。
大阪城の石垣は、その規模や技術、そして全国から集められた大名たちによる天下普請によって築かれた点で、日本史上でも特異な存在と言えます。現在もその壮大さを見ることができ、多くの観光客を魅了しています。
藤堂高虎による大阪城再建
藤堂高虎は「築城三名人」の一人として知られ、大阪城の再建において極めて重要な役割を果たしました。
1615年の大坂夏の陣で豊臣家が滅びた後、徳川幕府は大阪城を直轄地とし、1620年から二代将軍徳川秀忠の命で「天下普請」として大阪城の大規模な再建工事を実施しました。この再建工事の総責任者(普請奉行)に任命されたのが藤堂高虎です。
藤堂高虎は、全国の外様大名を動員し、堀や石垣、天守などの設計・縄張り(敷地の設計図)を総合的に指揮しました。
特に、豊臣時代の大阪城の痕跡をすべて埋め立てて消し去り、徳川政権の象徴として新たに巨大な石垣や堀を築いた点が大きな特徴です。石材調達でも、京都・木津川流域の大野山などから巨石を切り出し、運搬・施工の全工程を管理しました。途中で運搬が困難となり水没した「残念石」などの遺構も現在に残っています。
また、藤堂高虎は大阪城だけでなく、江戸城や二条城など多くの大規模築城・改修にも関わっており、徳川家康からも絶大な信頼を寄せられていました。大阪城再建における高虎の手腕は、堅牢な防御性と壮麗さを兼ね備えた近世城郭の模範となり、日本の城郭建築史においても画期的な業績と評価されています。
