臼杵城
歴史
臼杵城(うすきじょう)は、大分県臼杵市に位置する平山城で、戦国大名・大友宗麟(大友義鎮)によって1562年(永禄5年)に築かれました。当初は「丹生島城(にゅうじまじょう)」と呼ばれ、臼杵湾に浮かぶ天然の孤島「丹生島」を要塞化した海城でした。宗麟はこの城を拠点にキリシタン文化を推進し、礼拝堂や修練所を設置するなど、南蛮文化の影響が色濃く残る城として知られています。
1586年(天正14年)、島津氏の侵攻を受けましたが、「フランキ砲」や「国崩し」といった大砲を駆使して撃退しました。その後、大友氏が衰退すると、福原直高や太田一吉が城主となり、1600年(慶長5年)以降は稲葉氏が臼杵藩主として15代にわたり支配しました。明治6年(1873年)の廃藩置県で廃城となり、現在は「臼杵公園」として整備されています。
構造
臼杵城は連郭式平山城であり、築城当初は海に囲まれた孤島の要塞でしたが、江戸時代には埋め立てられ陸続きとなりました。
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本丸と二之丸:
本丸は丹生島の突端に位置し、その周囲を石垣で固めた堅固な構造。二之丸とは堀切で区切られています。 -
天守:
天守は3重4階の望楼型で、本丸西北隅に建てられていましたが現存していません。天守台の発掘調査では石垣が文禄年間(1593~1596年)に築かれたことが判明しています。 -
櫓と門:
城内には31基もの櫓と多聞櫓が配置されていました。現在は畳櫓と卯寅口門脇櫓の2棟が現存し、二之丸大手門が復元されています。 -
堀と橋:
本丸と三之曲輪は堀で隔てられ、今橋と古橋という2つの橋で結ばれていました。 -
石垣:
総石垣造りで、防御性を高めるため屈曲した形状や高石垣を採用しています。
他のお城にはない特徴
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①南蛮文化との融合
臼杵城はキリシタン大名・大友宗麟の居城であり、石垣にローマ字風の刻印が残されているほか、礼拝堂や修練所など南蛮文化を取り入れた施設が設置されていました。このような文化的特徴を持つ城は極めて珍しいです。 -
②孤島から陸続きへの変遷
築城当初は孤島「丹生島」にあった海城でしたが、江戸時代以降に埋め立てられて陸続きとなりました。この地形変化も他の城には見られない特徴です。 -
③火砲による防衛戦
島津軍との戦いでは、「フランキ砲」や「国崩し」と呼ばれる大砲を使用して撃退した記録があります。火砲を積極的に活用した防衛戦術も特異な点です。 -
④重箱櫓の存在
城内には総二階造りで上下階の平面規模が同じ「重箱櫓」と呼ばれる独特な櫓が存在していました。この形状は他の日本の城郭ではほとんど見られません。 -
⑤亀形の地形と別名
丹生島の形状が亀に似ていたことから、「亀城」「金亀城」とも呼ばれました。この地形的特徴から別名を持つ点もユニークです。
